手紙1

「愛は告白してはいけない。それは人を愛しているのではなく告白を愛しているからだ。」
と、絶対、どこかで聞いたはずで、だからこの言葉がスプレーのように浮かんできた。書きなぐり?書き逃げ?落書き、いたずら書きされたように心に張り付いている。
愛は告白してはいけない。何故ならあなたの一挙一動がその人への愛を示しているはずだから。あなたの言葉ひとつひとつが丁寧にその愛を含んでいるはずだから。恋人と心音を確かめ合う人は少ない、だから多くの人は恋人の心臓の音すら知らない。乳房の形は知っていても、陰茎の形は知っていても、心臓の音は聞いたことがない。興味がないのか?人のことはどうでもいい。
いつだって誰にだってする話。スーサイドというバンドがあって、ボーカルのアラン・ヴェガは客席の一番前の客とガラスのタンブラーひとつ、マイクを握る片方の手と別の手のひらで互いに支えあいながら歌を歌っていたのだという。すぐにガラスのタンブラーは割れて落ちるアラン・ヴェガの肌に刺さる赤い血がでる。本当のことかどうか知らない、そんな写真も動画もない。でも私にとっては本当のこと。アラン・ヴェガはその行為を通じて人間関係の壊れやすさ、はかなさを伝えたかったらしいけど、そこには繊細に人と接しようとするアラン・ヴェガのきめ細やかさがある。恋人に満たない人と、グラスのタンブラー片手のひらで支えながらデートしてみる。手のグラスを気にして動きはぎこちなくなり、会話は冷や汗をかく。普段してた会話なんてできない。神経は手の先に集中し、頭に出てきた言葉が口に出る。そして絶対に落ちる。そのあと拾い直して何気なくデートする?いやいや。
とにかく一挙一動すべて相手のことを気にしながら動くとはそういうこと。それは恋人たち以前の話だけれど。
鏡の前でアイラインを引きながらその日会う人をどうやって見つめるか、口紅を塗りながらどんな嘘をつこうか、考えるのが普通だと思ってた。料理をしながらオーダーした人のことを考えるのも当たり前。告白というシステム不要の表現プロセスが多重に存在する中で告白というものに全てをまかせてしまうのはそもそも怠惰ではないのか?サディズムマゾヒズムという構造そのものをアイデンティティにする馬鹿どももそれと一緒で、免罪符。高貴な行為だと思い込んでるだけ。やってることはかわらない。愛がなんだかわからない奴らがやることは一緒。愛を告白?愛を理解していないのに何を告白しているのか。
お前の国の言葉はわからない。
それに比べて。わたし「なら」あなたのことを理解できる、という果し状のなんと高貴なこと。ひとつ俗っぽいたとえ。DJOZMAにスンジョンという曲があって、「貴方だから僕が必要でどうせ最初からそう薔薇は薔薇を知る」とまあその通りで。ちゃんと文学的な話だとヤーコプ・フォン・グンテン。高貴なものに仕えること以外は意味を持たない。それは決して恋愛だけの話じゃない。闇雲にがむしゃらにやればいいってもんじゃない。美しい目標が必要だよ。
金か。確かに使い方のわからないおもちゃをたくさん持たせて貰った猿はただひたすらにそれを消費する。基本的には女と飯に。理性がない。なんどもいうけれど、人のことはどうでもいいよ。
一挙一動。言葉ひとつひとつも適当に吐いてはいけない。向かい合うなら。愛してるとか好きとか1センテンスで表現しきれるの?本当に?マジで?バッカ!?
だからそれは告白という行為が気持ちいいからで、確かにこうやって書く行為は気持ちいいんです、あれこれ自爆?知らない。
とにかく一挙一動、言葉ひとつひとつは暴力というか、試しているんです。本当はすかすか?空っぽのワナビー?ごめんね。あんまり人を信用していない。でも真面目に考えて切れ味のない言葉が出ないようにしてる。こんなの言い訳でしょ。でも話したいことが沢山あって溢れるからせめて言葉にして手紙みたいにする。