映画ファーゴ 批評

■序

 このテクストは例えば作者である私の中に起きたあらゆる思考の積み重ねや感情、内懐を忠実に綴方のようにあらわしたものではない。
 このテクストが某年何月何日某所で書かれたものであるという明示は、この文章そのものの解読において一切至要としない。
(そういった映画とこの文章に関連性を持たない作者の史歴がこのテクストの解読に文字通りあてがわれた際に現れるのは、読者が史歴から見出すことのできる統計学の虚影であり、そもそもそういったことに意味がないのは言うまでもないことだろう。)
このテクストの中に登場する映画関係者や文学家の名前などにかんして、私は本人の希望などにより一部改名などをするつもりはない。
このテクストは、このテクストの中において挙げられたり、或いは引用されたりするあらゆる映画関係者や文学家に捧げられたものでもないし、読み手の限定されたテクストではあるにしても、彼等に対して捧げられたものでもない。強いていうならば、シェップ・プラウドフットの”Fuck you!” を「ファックしろ!」と訳した翻訳家に捧げる。


■「ファーゴ」へ(1)

 画面一杯に大量のミミズ。そして、マージ・ガンダーソンのアービーズのハンバーガーへの「美味しそう」のセリフが重なった時、自分の眉が額の真ん中に集まるのを感じた。(この表情をこの映画を観ている最中、何回しただろうか。人が死ぬたび?)これはわざとだ。こういうことが好きな奴らだ。そもそも、あそこでガンダーゾン夫妻が食べているアービーズのハンバーガーは本当に野菜のほとんど入ってない、薄切りのローストビーフが大量にバンズに入った、ともすればミミズが大量に入っているように見えなくもないもので、あからさまに意図的にアービーズを選んだにちがいない。マクドナルドのハンバーガーにミミズが使われているという噂は、少々直球すぎてここで”挟む”には奴らの好みでないのだろう。とにかく、昼食のシーンが上下バンズのミミズ・バーガーは私の視覚と心にしっかりとした印象を植え付けた。スティーブ・ブシェミの歯並びがポテト・クラシックってところだろうか。ちなみに、アービーズのサイトで確認したところ、現在ミネソタには86店舗ものアービーズがあり、ちゃんとミネアポリスにも展開がある。そんなことはどうでもいい。しかし、基本的にどうでもいいことの方が気になってしまう。どうでもよくないことってなんなのだ。
 さて、先程のミミズの話は映画「ファーゴ」の1シーンである。「ファーゴ」は1996年に公開されたジョエル・コーエンイーサン・コーエンの「コーエン兄弟」による、クライム・アクションとも取れるような、コメディとも取れるような映画である。私の意見としては、シェイクスピアの後釜としてイングランド国王御用達の劇作家となったジョン・フレッチャーによって「悲喜劇とは浮かれ騒ぎや殺しがあるからそう呼ばれるのではない。悲劇には足りない死、やはり喜劇には足りないそれに似たものからそう呼ばれるのである」と定義されている「悲喜劇」と呼ぶのが最も適している。「悲喜劇」と呼ぶものは二種類あって、悲劇のような筋でありながら、最終的にはハッピーエンドを迎える劇のことも悲喜劇と呼ばれるのだが、ここでは前者のフレッチャーによって定義されるものを「悲喜劇」として話を進めていきたい。ただ、これから行うのは、「ファーゴ」にどの映画でもあてがうことのできる符丁の連呼によってそれっぽく論じてみせることではない。それはどの映画でもできる。(詰まり、もし、例えばの話だが、恋人に映画の批評を頼まれた際手前味噌でベンヤミンの複製技術時代の芸術やバタイユのエロティシズムなんかをそこらの適当な映画にそれとなく引用して見て批評することは容易い。エロイユのバタティシズムでも良い。)映画的な手法に関する問題提起、例えばコーエン兄弟の「独特なカット割」に関して切り込んだりとか、そういったことがしたいわけでもない。そもそもそこに関しては私は完全に部外者で、もしかしたらこれから論じることとの深い関わりを持つ象徴的なカット割があるのかもしれないが、それは本職の映画批評家どもに任せるとして。(個人的には「ファーゴ」のカット割は「夜の大捜査線」とかハードボイルド寄りの刑事物にありがちなカット割を洗練させたものだと思うのだが、どうだろうか。登場人物ゲアの運転のシーンなどは王道を通り越してむしろ古臭さを感じた。一瞬ボギーに見えた。劇中マールボロマン、つまりドンジョンソンに似ていると言われるのは滑稽だ)
 さて、すっかり遅くなってしまったが、論旨を提示する前に、ファーゴのあらすじを確認しよう。カナダの国境を近くとするアメリカはミネソタ州ミネアポリスに住む自動車販売店営業担当のジェリー・ランディガードが自身の金銭トラブルのため、自身の妻を狂言誘拐し裕福な義父から8万ドルの身代金を騙し盗ろうとする。自動車工場の整備士から二人のチンピラ、変な顔の男「カール」と大男の「ゲア」を紹介してもらい身代金の半分を報酬として支払う代わりに、誘拐の実行犯となってもらう為、ノースダコタ州ファーゴの酒場で誘拐用、兼報酬として販売店から持ち出した車を引き渡す。カールとゲアは見事誘拐に成功するのだが、アジトに戻る途中で職務質問をしてきた警官を射殺、その目撃者二人を殺害してしまう。ただの狂言誘拐だったはずが殺人を犯してしまったカールとゲアは、ジェリーに身代金の8万ドル全てを渡すように要求する。ジェリーは、誘拐犯たちが100万ドルの身代金を要求してきたと義父・ウェイドに告げる。誘拐犯との約束の日、ウェイドは、ジェリーを信用せず、自ら身代金を持って誘拐犯と直接交渉しようと待ち合わせの場所に向かう。ウェイドを見た、カールは、約束が違うと怒りを露にし、彼を射殺し100万ドルを奪う。
 妊娠中の女性署長マージ・ガンダーソンが事件の捜査に当たっていたが、ジェリーの計画が元々杜撰であり、またマージに対するジェリーの対応が不自然だったせいもあり、あっという間にジェリーに疑いが向いてしまう。マージの度重なる訪問に怯えたジェリーは車に乗って逃走してしまう。カールは、ウェイドから奪った100万ドルを独占しようと8万ドルだけを手元に残し、残りの大金が入ったブリーフケースを道中の雪原に埋め、当初の約束どおり8万ドルをゲアと山分けしようとするが、誘拐に使った車をどちらが手にするかで揉め、カールはゲアに殺害されてしまう。挙句、カールが到着した時にはジェリーの妻は殺されていた。マージはアジトでカールの死体を木材破砕機で粉微塵にしているゲアを見つける。マージは、逃げようとするゲアの足を撃ち抜き確保する。逃げ回っていたジュリーもモーテルで逮捕される。無事事件が解決し、自宅の寝室でテレビを見るマージに、夫のノームは自分の絵が3セント切手の絵柄に採用されたと告げ、2ヶ月後に出産予定のマージは夫とダブルベッドで肩を寄せあい、「私たちは幸せな夫婦ね。」と呟く。(wikipediaを改変したが、wikipediaのURLを貼るべきだった。)
 以上が映画「ファーゴ」のあらすじである。
 このテクストでは、「悲喜劇」である「ファーゴ」において作中人物に等しく与えられる不幸に関して論じるとともに、それを明らかにしていくうちにたちまち生じる幾つもの不幸な作品論的問題をさらけ出し、「ファーゴ」の新たな観点を騙し取ることを目的とする。
 先ず、何故「ファーゴ」はここまでバッタバッタと死人の出るサスペンス的要素を持つにも関わらず「悲喜劇」であるのか。非、とつくにしてもこれは喜劇である。コメディ、笑い話だ。これは単純な話で、まず第一にこの映画の脚本は刑事コロンボに代表されるような倒叙によって描かれている。倒叙とは、と説明するのは面倒なので下記をご覧いただきたい。

普通のミステリーは、まず事件が起り、警察あるいは探偵役が捜査に乗り出し、犯人の行動や動機を推理して事件を解決する。しかし、倒叙もののミステリーでは、まず、前半で犯人が完全犯罪を計画する形であらかじめ手の内を明らかにする。その後、計画を実行し、それが成功したかに見えた時点で、今度は逆に警察や探偵の側が捜査を開始して、犯行を暴き、事件を解決する。つまり、ストーリーの展開の仕方が普通のミステリーとまったく逆なので、倒叙とか、倒叙推理小説というわけである。(権田萬治・新保博久監修『日本ミステリー辞典』より)

 さて、「ファーゴ」の前半は首謀であるジェリーが狂言犯罪をカーンとゲアに打ち合わせるところからはじまる。そして誘拐に成功したところで、予期せぬ殺人によってこの事件は犯人であるジェリーの手からも、カーンとゲアの手からも離れていってしまう。そして、そこにマージ署長が現れ事件を解決する。この倒叙、私はコロンボをあんまり見たことがないので、犯人の手から犯罪計画が一人歩きしていく回があるのかどうか知らないが、古畑任三郎ではあったような気がする。なかったとしても、この脚本が倒叙のシステムを踏襲していることには変わりない。
 倒叙というシステムを採用しているからと言って、それが「ファーゴ」を「悲喜劇」たらしめているのではない。と、ここで謝っておかなければならないことがある。先程「悲喜劇」を定義した文章を思い出して欲しい。

(前略)~ジョン・フレッチャーによって「悲喜劇とは浮かれ騒ぎや殺しがあるからそう呼ばれるのではない。悲劇には足りない死、やはり喜劇には足りないそれに似たものからそう呼ばれるのである」と定義されている~

「悲喜劇」と呼ぶものは二種類あって、悲劇のような筋でありながら、最終的にはハッピーエンドを迎える劇のことも悲喜劇と呼ばれるのだが、ここでは前者のフレッチャーによって定義されるものを「悲喜劇」として話を進めていきたい。

これは嘘だ。どちらの悲喜劇も使い分けつつ論を進めよう。倒叙のミステリーというものの中で、犯人が挑戦的な犯罪者でない限り、須らく後者のハッピーエンド的「悲喜劇」である。何故なら、犯人は不幸を前提に犯行を重ね、最後は死ぬか逮捕かの悲劇を迎えるのに対して、犯人が追い詰められれば追い詰められるほど、探偵あるいは警部は観客とともに真相にたどり着き、事件解決のハッピーエンドを迎えることができるからだ。最初に登場する犯人の悲劇と、主役である探偵あるいは警部のハッピーエンドが正の相関関係にあり、観客はそれが同時に進んでいくのを見ている。「ファーゴ」においては、ジェリーの逮捕がハッピーエンドということになる。挙句、劇中で殺害される人物の死(あるいは不幸)は極めて悲劇的であるということもできず、喜劇と呼び切ることもできないものだ。ここに関しては感覚の共有のみがその感触を感じることができる。
 (しかし、私は本当にこの点に於いてミステリーが苦手で、人が死んで於いてハッピーエンドっていうのは一体どうなんだろう?TVドラマのポアロヘイスティングスが殺人事件の後優雅にお茶なんか飲んでるシーンなんかはまだマシだが、日本の2時間ドラマあたりの事件解決後の警察の幸せっぷりはすごい。難事件も解決したし、今日は久々に一杯やるか!って感じである。恐ろしい。そういえば知り合いの妹が警官と付き合っていて、その警官と妹は、妹の友人5、6名が詐欺グループをはたらいていたのを調査していた時に事情聴取で知り合ったそうなのだが、詐欺グループを全員ブタ箱に入れ、最後の事情聴取が終わった後、タイプだったから職権乱用で調書の電話番号から妹に電話してデートの約束を取り付けたのだという。妹は詐欺に関与こそしていないが、妹の友人を全員逮捕して於いて、その友達と付き合うっていうのはどういう神経をしているんだろうか。ていうか調書から電話していいわけがない。全くもって度し難い。)
 極めて悲劇的ではないにしろ、殺人に関しては極めて暴力的に描かれるのがこの映画の特徴で、降り積もる白い雪と赤い血が対照的に描かれる。全編を通して喜劇的に描かれる映画の途中に行われる暴力的な凶行は映画にメリハリをつけてくれている。ところで、この映画で一番呑気なのは誘拐された後義父であるウェイドと話し合っているジェリーが、レジのウェイトレスが”How was everything today?”と聞かれて”yah,fine.”と答えるところだと思う。もちろん彼女は事件のことなど何も知らないのだけれど、呑気なウェイトレスだなあ。

 

■「ファーゴ」へ(2)

 北野武監督作品のヤクザ映画「アウトレイジ」のインタビューで、北野がキャラクターの死に方から決めて逆算して物語を作っていくと確か言っていた。まあ言ってなくてもあの映画はそういう作りで、死に方からキャラクターの性格から見た目から何から形作られていくという特殊なキャラクターメイキングをしている。当然だけれど、キャラクターは自分が死ぬ運命にあるとは知らずに行動していく。知っていれば避けるであろう行動を知らずに選んでいってどんどん抜き差しならぬ状況を自ら作り出す愚かさを観客は笑っている。「アウトレイジ2」で組長である三浦友和が揃った部下のヤクザに向かって「誰が山王会ここまで大きくしたと思ってんだ!」と怒鳴った時は笑いが止まらなかった。別にゲタゲタ笑ったわけではなく、笑うしかなかったというような乾いた笑いだけど。死にたいして感傷的でやさしいにっぽんじんが映画を悲劇と受け取らずに済む最後の仕掛けは登場人物がヤクザであることで、「裏社会の人間でそれなりのことをしているから死んで当然」という考えゆえの、あるいは自分たちと関わりのない世界であるがゆえの冷酷さなのか日本人が受容しづらい悲喜劇的映画を北野武は見事に成立させたと言える。
 話を「ファーゴ」に戻そう。「ファーゴ」の話をするときに出てくるのがアウトレイジ。いかに最近映画を見てないかというのがわかる。「ファーゴ」の場合、キャラクターはそれぞれ凶事に向かって進んでいく。一応、前提として書いておくが、これは悪い事をした人間、していない人間、といった分け方はされていない。ジェリーの妻は特に何かしたわけではないが(頭の悪い旦那と父を持ったというその一点だけは反省すべき点かもしれない。でも「父を持った罪」だなんて!)アジトで喚いたという理由でゲアに殺されている。まず登場人物に降りかかった不幸をまとめておこう。(それのどこが不幸なんだ?というのはさておき)


・マージ・ガンダーソン 
虚言癖の同級生マイク・ヤナギタとのランチ、売れない画家の旦那
・ジェリー・ランディガード
妻の死、義父の死、狂言誘拐の失敗、逮捕
・カール
ジェリーの義父からの頬の被弾、ゲアに殺害される
・ゲア
逮捕
・妻
誘拐される、ゲアに殺害される
・ジェリーの義父ウェイド
100万ドル奪われる、カールの発砲による死亡
・マージの旦那ノーム
自分の絵が3セント切手の絵柄に「しか」採用されなかった
(※劇中でその発言あり。引用は流石に面倒だ)
・カールとゲアを職務質問した警官、凶行を目撃したカップル、
ゲアの発砲による死亡
・身代金受け取りの待ち合わせ場所の駐車場の警備員
カールの発砲による死亡


 上記に挙げたように、「ファーゴ」における不幸は死とは限らない。死んだものたちを見ていこう。
 登場人物の中で死亡したのは妻、義父ウェイド、カール、ゲア、警官、カップル、警備員である。このうちいわゆる悪事を働いたり、あるいは金銭的な欲を出したりした結果死亡したのはウェイド、カール、ゲアの3人である。妻、警官、カップル、警備員はそれぞれ通り魔的被害者である。さて、「ファーゴ」と同じモキュメンタリーの形式を取る、世界で最も読まれているフィクションの中で、通り魔的被害者、といえばヨブ記のヨブだ。おそらく彼が世界で最も不幸で有名なフィクションのキャラクターといっても過言ではないだろう。(ないとは思うが、原文を読んだことがない場合原文を読むよりも下記にあらすじが載っているので読んだことのない方はこちらを参照のこと。)

旧約聖書 ヨブ記 松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0487.html
(注釈:あれ?ヨブ記読み直してないからわからないけど松岡正剛のやつ、神が悪魔を呼んだことになっていないか?確かヨブの前で神がサタンにそそのかされて痛めつけ始めるはずだが、、。松岡正剛のHPは往々にしてこういうことがあり、以前私の師が松岡正剛に「松岡さんウィキペディアとか見るの?」と聞いたところ「見ますよ」といっていた。加えて、松岡正剛事務所に出入りしているデザイン会社の人間は「あの人は一人で書いてるけどたまにちらっとしか読んでないで書くから間違える」と言っていた。やはり原文参照されたし)


 ヨブ記はヨブという男、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けてきた」敬虔な男が神によって試され、傷つけられ、財産を奪われ、挙げ句の果てに自分がなぜこのような目に合わなければならぬのか、神に直に問いただした男である。神も神で謝るわけにいかないので、なんとかなだめているのが面白い。
(下記は以降論の補足である。)

これ見よがしにヨブ記を引用し比較しようとしたら、シリアスマンのインタビューでイーサンがはっきりとヨブ記についてコメントしている。というかこれはインタビュアーにあっぱれ。

  ――『シリアスマン』が参考にした小説はありますか? たとえば「ヨブ記」とか?
イーサン それは面白いね。そんなことは思ったことがなかった。僕らの作品のように、感情が爆発することころがあるけど。でも、そんなことは考えたことがない。
ジョエル 『オー・ブラザー!』(‘00年)のときのように、オデッセーのような叙事詩的な物語の類は考えていなかった。だが、故郷に戻ってくる男についてのことだと思うと、ちょっと自意識過剰ぎみなところはあったな。もっと古典的な感じするかどうかは迷うところだった。でも、この映画が「ヨブ記」のようだとは僕らは思っていなかった。ただ、自分たちの映画を作っていただけだ。関連性については理解するが、僕らの考えではないね。

(出典:http://intro.ne.jp/contents/2011/02/04_1950.html

 これはヨブ記を論理の補強に使うことを制限されるわけではないことをここで明言しておく。何故ならユダヤ人である彼等にとって、このヨブ記だけでなく全体的にその傾向にある聖書を何万回と呼んでいるはずだからである。
(以上補足終了)

 さて、ここからが売っぱらってしまった本の記憶による引用を交えた論になってくる。ヨブに降りかかる災難をたやすく「不条理」と呼んでしまう前に「不条理」を定義しよう。それには昨日、手元に『死に至る病』と『シーシュポスの神話』がなかった。
文学的不条理を定義し、哲学的不条理を定義し、コーエン兄弟カミュ的な不条理を描いていることを証明したい。明日にでも『死に至る病』と『シーシュポスの神話』を買ってこようとする。

(前略)不条理性は比較から生じる。したがって、不条理性の感情はある事実またはある印象の単純な検討から生じるのではなく、事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくるのだと言ってもいいわけだ。不条理とは本質的に相容れぬことである。
(P.28,29カミュ『シーシュポスの神話』新潮文庫)


不条理の一つの側面として、入口と出口で違うものが出てきた、というものがある。簡単に言ってしまえば、計画が予想と違う結果を生み出した、ということ。我々は未来を、時間をあてにして生きている。明日になればこうなるはずだ、とか、後でわかる、とか。未来がこうあるべきという姿を楽天的に予測する。文学において、不条理というものはこの未来の予測があっさりと覆されることによって頭を擡げる問い<なぜ>である。カミュは現実世界におけるこの<なぜ>が自らと外部の世界において問われていくとしている。

すなわち、外部世界は《ぶ厚いものだ》ということに気がつき、一つの小石がどれほど無縁なものか、僕らの世界へと還元するのがどれほど不可能であるか、自然が、あるひとつの風景がどんなに激しくぼくらを否定しかかってくるかを垣間見るのだ。
(p.56,57カミュ『シーシュポスの神話』新潮文庫)

 「ファーゴ」では、自らが企てた犯罪計画そのものや、義父や、車のウィンドウについた氷など何もかもがジェリーを否定しかかってくる、これが「不条理」である。正確には、自らが作り上げたもの、自らの世界に収まっていると認識していたものが自らの手から離れ、無縁なものとなってしまうこと、これこそが不条理なのだ。つまり、劇中においておこなわれる殺人に関してはこれは不幸でしかない。不条理ではないのだ。ジェリーは間違いなく劇中において不条理の被害者に他ならない。それも唯一の被害者だ。
 「ファーゴ」において、この犯罪計画が自らの手を離れ無縁なものとなってしまう不条理性というテーマがはっきりと明示されると、ポール・バニヤンの存在や、マイクヤナギタ、モキュメンタリーテイストの最初の”THIS IS A TRUE STORY.”などは最早それに対するおまけというか、特に意図しない遊びのようなものとして立ち現れてくる(ヨブもしかり)。なぜ、THIS IS A TRUE STORY.と言ったのか。それはもうジョーオーウェル的遊びでしかない。
 結論をとっとと言おう。「ファーゴ」という映画そのものがコーエン兄弟コーエン兄弟の手から離れてしまった作品である。ジェリーが不条理に見舞われているのと同様に、コーエン兄弟もまた不条理に見舞われている。入れ子構造だ。
 作者は作り上げるフィクションの中に入り込むことを要求される。フィクションの細部全てを管理など到底できない。フィクションは作者の手を離れていく。
 ここでまたインタビューを援用しよう。

――この映画は最初からコメディにするつもりでしたか? シリアスなドラマにもなりえた題材だと思うのですが。
イーサン 僕らは決してわざとそうしているわけではないんだ。ストーリーはストーリーだし、自由に感じて、笑ってくれればと思う。どっちでもいいんだけど。僕らが選んでいるわけじゃなくて、話がひとりでに展開するんだ。
(出典:http://intro.ne.jp/contents/2011/02/04_1950.html

 これは前回引用したインタビューと同様『シリアスマン』のインタビューだが、「ファーゴ」でも同じで、コーエン兄弟はキャラクターを先に生み出し、ストーリーは後から考える。あるいはキャラクター「は」先に生まれ、話「が」ひとりで展開しだしていると考えても良い。以前に書いたが、悪い事をした人間、していない人間に関わらずキャラクターはそれぞれ凶事に向かって進んでいく。それは既にコーエン兄弟の手を完全に離れ、キャラクターたちが動いていくそのシーンが無数に生まれていった結果つじつま合わせのように繋がってしまうものがストーリーである。だから、コーエン兄弟が設定するのは「劇中劇であること」とキャラクターであり、これがフィクションにおける仕掛け。ストーリーはその結果生まれてくるシーンの数々から浮かび上がるぼんやりとした像だ。それと同時に忘れてはならないのは、それぞれのシーンの繋ぎ合わせという行為は、映画製作そのものに他ならないということだ。
 それだけならコーエン兄弟のどの映画でも論じることができる。このテクストは「ファーゴ」について書いている。さきほど言ったように、「ファーゴ」劇中に於いて、この作成したフィクションが作者の手を離れてしまう悲喜劇に見舞われている人物がいる。ジェリー・ランディーガードである。この長いテクストの中で、「ファーゴ」論の犯人探しも彼にようやくたどり着くことができた。ジェリーは劇中ただひとり、劇中劇、フィクションの製作者として存在する。ジェリーが自らが製作した狂言誘拐の支配者ではなく、自らが雇ったチンピラ二人に振り回され、義父に振り回され自らが作り出したありcとあらゆるフィクションに振り回される。
映画監督は自らが作り出した映画の支配者ではなく、自らが産み出した作中人物に振り回され、ストーリーを支配できず自らも想像し得なかったエンディングを迎える、この二重構造そのものが、「ファーゴ」の主題である。


■「ファーゴ」へ (3)
 朝4時にコーヒーに襲われる夢を見て魘されて起きた。おかげで早起きすることができ、本屋に行って『シーシュポスの神話』と『死に至る病』を買ってきて加筆している。そういえば、映画における時間軸に関して、「ファーゴ」は特に現在過去未来入り混じって迷い道となることなく進んでいくな、ということについて考えていた。あまりそう言ったものを整理するのは得意でない、というよりも整理することにあまり魅力を感じない。クリストファーノーランについて書く人は大変だろうなと思うよ、あらすじ書けないし。インセプションもそうだし、何よりダンケルクだ。それを整理したらあの映画はノーラン的ではなくなるし、史実の説明をしてるようなあらすじになってしまう。だから、映画で云う翌朝って?みたいな話になってくる。私の今綴る翌朝と実際に流れている翌朝は違う。もう7時53分になっている。作者の過ごす一日と映画内の1日とでは時間の流れ方が違う。
 作品を作り出すもの、つまり作家であったりとか映画監督であったりとか、なんでもいいのだけれど、そいつらは全て別に作品をコントロールしているのではなく、作品が彼をコントロールしているのだということ。大好きな「アウトレイジ」の話に戻るのだけれど、椎名桔平演じるヤクザが死の直前に自らの死を悟り、愛人と獣のようなセックスをする場面があって、ここで椎名桔平は自らの運命を悟って、とか、人は結局死ぬ前に生存本能でセックスしちゃうのよね、という話がしたいのではなくて、彼は彼自身と彼の愛人に彼の運命を悟らせた。フィクションの中の人物がフィクションとして安定していないのであって、決してそれはデッドプールのようなメタフィクションでもなく、というか後者のそれらはしっかりフィクションとして完結するものである。椎名桔平の場合、現実とフィクションがしっかりと(しっかりと?)対立していないが故に起こりうる、いわば映画キャラクターの観客との未知なる遭遇なのだ。
 映画とは登場人物全てが映画監督によって動かされるコマではあり得ない。そして、作中人物は時としてメタフィクションや先ほどの入れ子構造ではない形でフィクションの壁を超えてくる。例えばカーンが「誰にも聞かれていないか?」と聞くとき、映画の中のジェリー以外に観客が聞いているのだ。ジェリーが「約束と違う!」と言っている時、それはカーンと我々観客両方に言っている。ジェリーは自らの狂言誘拐の舵取りを失ってはいるものの、映画というフィクションそのものの舵取りを失ってはいない。コーエン兄弟が失った舵取りはジェリーが主体となって行なっている。映画監督が死なないように、ジェリーは死ぬわけにはいかない。彼には、このコントロールを奪われた映画を動かしていく役目があるからだ。
 我々は映画をみて、不条理を克服したり不条理を受け入れたりということをするべきだ、などとコーエン兄弟は思ってなどいない。そもそも、作品で何かをメッセージにするということ自体、「不条理」を扱う作品の性質上間違っていやしないだろうか?コーエンの作品はただそこにある。コーエン兄弟たちの手から離れ、フィクションとフィクションが揺らいでいくことこそが、「ファーゴ」の内包する映画における「不条理性」を受け入れることそのものに違いないからだ。
 コーエン兄弟はこのことを明示的に楽しんでいて、映画を観る側の姿勢を意図的に立ち現れさせる。映画を映画の外から見るという行為が喜劇には必要であるにも関わらず、悲劇における映画への没入が固唾を飲むような緊張感のあるバイオレンスによって交互に繰り返されるのは、そうすることによって彼ら兄弟が映画の作り手として味わうことのできる、自らが作り出した映画が手を離れることの疑似体験を観客にも共有しようとしているからだ。
 例えば、ゲアが浴室でシャワーカーテンに隠れるジェリーの妻を睨むシーンは我々は映画に没入しまるで隠れているかのように「開けないで…!」なんて思ってるくせにシャワーカーテンで身動き取れなくなっている妻を見た瞬間に「あーあ、バッカでぇ」という気持ちに切り替わっている。これがコーエンのマジックだ。コーエンの持つ、不幸を指し示すコンパスによって、観客は、作中人物の不幸をまるで自分が望んでいたかのように錯覚するし、不幸と性質を異する暴力によって自分が所有していた(と錯覚している)物語がまるで自分の手から離れたような錯覚の錯覚に陥るのだ。こういう風に、ある時自分の理解の範疇にあると思っていたものが突如自分の理解の外に行ってしまうこと。コメディだと思っていたものが突如バイオレンスの要素を持ち出すことによって、観客がこれまでの映画の公理のようなものから解き放たれていく。ジャンルというものの持つ普遍性から、いや、そんな話はつまらない。どうやらここがやめ時らしい。
 ただ、彼に思うのはそんなキルケゴールカミュ、書き手から独立する作品のことなんか考えているよりももっと楽しい映画の見方が沢山あるのかもしれないよ。「どうしてこんなちょっとばかしの解読のために映画を切り刻んでみたりするのか」「映画には解読よりも大切なことが沢山ある」のに、彼は不条理や悲喜劇を持ち出したりして映画に対してこういったフィクションとフィクションの歪みのようなものを見出し至極暴力的に撃ち抜くのか、理解ができない。コーラとポテチをベッドの横に置いてナショナルジオグラフィックでも見るみたいに「すげー、血赤い」とか「雪白い」と言いながら見ているのが一番だ。 
 事実、警部は一般的な、物語から映画をみる観客のメタファーで、逆に、ゲアは全てを支配し、あらゆるシーンのあらゆる物から意図を見出し、映画を汲み取ろうとする絶望のメタファーであると取ることもできる。映画の全てを支配し、常に映画の世界の中へ入ることを要求し、それでいて観客の理解の外へ映画を持って行こうとバイオレンスを繰り返すゲアが捕まった際に、「人生は大切なことが沢山ある」なんて言い切るマージを彼は本当に理解できない。そんなかたっ苦しく映画なんか見て楽しい?って言われてる気分だ。最後、マージが旦那とテレビをぼうっと見ているシーン。事件が解決した後何気なくまた日常に戻る描写は、映画館を出た瞬間に映画全てを忘れてしまうカップル客のようだ。
「映画楽しかったね!」
「うん!ふふふ、愛してるよ!」
みたいなさぁ!ばっかじゃねえの!って言いたかったんじゃなかろうか。

 ところで、彼はコーエン兄弟のインタビューがあったからこうやって推論の言葉遊びをすることができたが、実際現場を知らないのであって、じゃあなんでこのシーンはこうだったの、とか、そういったことは実際明言できないことの方が多い。例えばゲアが警官殺害の凶行を目撃したカップルを殺すのだって、恐らくはコーエン兄弟があの深夜の大捜査線のようなハードボイルドなシーンが描きたいからかもしれないし、あるいはただただ、カップルを殺したかったかもしれない。リア充死ねというやつである。
 映画の主旨であるとか、メッセージがどうとか、コーエンの意図とか、そういったものを掘り当てようとするのは「ファーゴ」の話を信じてわざわざアメリカまで行ったクミコ・ザ・トレジャーハンターのようなものだ。それは、いやいや、凍死するほどにサムい。そもそも先に論じた作者の手を離れるフィクションの、そのフィクションの作中人物の作り上げるフィクションが作り手の手から離れる、入れ子構造とフィクションとフィクションの歪みそのものが、作者の手を離れ、作品がここまで考察に耐えうるものになってしまっているのだ、と考えた方が気が楽だ。そういえば、クミコ・ザ・トレジャーハンター、これもモキュメンタリーというのは本当によくできた話だ。この題名はよくよく考えなくてもこれはベイブ・ザ・ブルーオックスと踏んでいるんだろう。ところで、居間で「ファーゴ」を流していたところ96歳の祖母がどっかのシーンを見て「この人右手でコーヒー飲んでる。普通スプーンが右手よね」と言っているのを聞いて、本当に感心してしまった。すっげえな!96歳!