ウォールフラワー雑記

「人間というものは、根源的に孤独な生き物だ。その相手も孤独だから、人に左右されることはない」

バンド  ザ・スミスのボーカル、モリッシーは強い人間で、だからこそ一人で生きていけるし、生きていかなければならないことも知っている。だからこそ彼が歌う時流れるように歌うけれどそこには確固たる人間としての軸があってそれが揺れるからこそ美しい。人が孤独なのは間違い無くて、だからこそ一人で生きていかなくちゃと気張る人間はいつか崩壊する。それが素のままできるのは狂人だ。何も気にしない能天気な人間たちはある程度のバランスを他者に寄りかかりまた離れながらうまく年月をかけてやりすごしていく。でもやりすごしたくないのだろう?精一杯生きる、それがしたいのだろう?自分の中に存在する顔のどれが自分らしいかもわからないまま笑顔作って必死で生きているのが精一杯なのだろう?

映画のテーマとは全くミスマッチながら繰り返し登場する"asleep" The Smithを聴きながらそんなことを思った。

ウォールフラワー、壁掛けの花。煌びやかな憧れの世界を見てるだけの人間で、社会に触れることができない、そう思っている男の子が自分が憧れていた人々との交流を通して自らの精神の病と向き合うことができるようになる映画。サム役のエマワトソンとパトリック役のエズラミラーが役にどハマりしていて、というか二人とも素で演技してるかのようなハマり方。だけどその二人がハマってるが故に主役のチャーリー、統合失調(おそらく)持ちのローガンラーマンがひたすらに外側の人間でい続けなければならないような、最後まで壁掛けの花を卒業できてない仲間はずれ状態になっていた。正直僕は、"仲間ができて最高にしあわせな彼の生活"は彼の病気が作り上げた妄想なんじゃないかと思っていたがそんなことはなかった。でも一緒にいたって仲間はずれには変わりがない。そのくせ教師に「最初の友達が先生とか最悪です」みたいなこと言うだろ?いまいちブレてる。というかこの仲間がやっかいで、陰な奴らのグループと陽な奴らのグループのいいとこ取りしましたみたいな存在しない理想のグループなので、そこに一人リアルな存在のチャーリーは入り込めない。映画的すぎるんだよ彼らは。チャーリー、君は余りにも現実すぎる。チャーリーが本当の意味で仲間になるには君もロッキーホラーショーの先頭に立って恥ずかしがらずに歌わなきゃいけない。まるでムーラン・ルージュユアンマクレガーみたいに。象の部屋(サムの部屋でも)でWe can be Hero just for one dayくらい歌わないとこのミュージカルの中には入れないよ。まるでミッドナイトインパリの主人公のようにわけわからず付いて行ってるままなら独りぼっちのほうがいい。

サムはよく悪い男に引っかかるロックガール(この映画に出てくる人だいたいロックよりもゴスい音楽が好きなので全体的にゴスなんだけど)で、義兄のゲイのパトリックといつもつるんでいる、彼氏のクレイグの前では大人しく可愛らしくしているが本来はそんな性格ではないとのことだけど、実際チャーリーの前でもおんなじようなおとなしさなので、彼女には男の前でいい子を演じる癖があってなるほどあばずれって感じ。パトリックはアメフト部の…えーとなんだっけ忘れた男の子と交際してて、親バレして喧嘩するシーンが少し蛇足。別にアメフト部が喧嘩するシーンを主人公が止めるのもなんか、スーパーパワーのヒーローですか?というかんじでなんとなくいじめられっ子の理想の高校生活!みたいなかんじがしてこのシーンはとても嫌いでした。

結局チャーリーはどうしようもなく傍観者、ウォールフラワーはドラッグやってもウォールフラワーのまんま。なんていうか、場の根本的な空気に溶け込めていないからディズニーランド行って帰ってきましたみたいなミスマッチさがある。パトリックみたいな、いい仲介役がいて体験するエンタメと、地で自分で世界に潜り込んで行くのとはわけが違う。友達に勧められて始めたドラッグと自らやり始めたのじゃ重さが違う。

残念ながら俺も社会からしたら壁掛けの花、しかも萎れてしまってグロテスクな花、誰しもが悪趣味だと思いながら誰も捨てたがらないだけ、そこにずっと飾られている。だってこちら側の世界の方が稼げるんだもの、アングラでぬくぬくやってるよりも。

だから、そもそも壁掛けの花なんかではなく鏡なんだ、あちらとこちらの世界は違う。

鏡の中には鏡の中で世界があるから、僕らがあの人は変わりものだと思っても、変わり者の世界ではうまくやれてる可能性がある。美女と野獣で変わりものベルを演じたのはエマワトソンだったな。

チャーリーが仲間に入れてもらえるのはドラッグやってるときだけ、あちら側にいく勇気などないし、映画は映画。世の中には映画が終わった後の続きがある。あのあときっとサムはまた違う誰かと付き合うし、それは残念ながらチャーリーではないだろうし、パトリックはもういない。そもそもサムとパトリックを繋ぎ止めているものがなんなのか、映画では明記されない。片親同士再婚の子の心細さか?

世の中は続いていく、パンク突き通すことができないなら仮面を被り続けた方が人生は楽だ。30歳で終える人生設計なら知らんけど。

この映画を勧めてきた彼女からしたらエズラだけが刺さるのではなくチャーリーもまた刺さるのだ。未知の世界に怯える意気地なし、何故なら彼女もそうであるのに、まるであちら側にいると捉えられるから、おっかなびっくり煌びやかな世界に潜り込んで息苦しさを我慢しながらいつ造花とバレるか冷や汗垂らしながら生きているから。

だから自分より人間下手な男がいると愛したくなるんじゃないのか?違うかな。

 

クリスマスに親からもらった50ドルでプレゼント買うような愛が素敵か?マジで?ばっかじゃねえの。

チンピラと血反吐を吐いて喧嘩して奪い取ったぬるいビール瓶1本、俺だったらそっちの方がマシ。でも人それぞれ。

チャーリーが先生から譲り受けたのはサリンジャーライ麦畑で捕まえてだけど本当名作だからといって春樹とかサリンジャーとか別に青春が悪いわけではないが青臭くてとても食えたものじゃないな、俺は女はよく腐らせてから食べるけれど、狂ってしまった女のほうが面白いしそもそもまともな女には好かれないので…

 

女にもらったタイプライターではなく血塗れの抜け歯で小説を書け。

本当は書くことなんか何もない、書くほどの衝撃を受けた時言葉は溢れるものだから。私たちのことを書いて、という時彼は何を書くだろう?愛の詩なんか書けるのか?自分のことで精一杯の奴が?