発酵と調理

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発酵というのがいつか自分の大きなテーマになるだろう、とは薄々感じていて、発酵なんだよね〜とはずっと口にしていた。

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ものには隙間がある。そこに油や、水や、空気や、言葉は入り込む。それは水のように滲み入る時もあれば、粉のように小さな穴を進んでいく時もある。人の五感、六感よりもさらに向こう側の第七官で感じ取られる何かもそこに入り込んでいく。生物の中に無数に存在する細胞だって、粉だって呼吸をしていて、動いている。苔も恋愛をしているかもしれないし、ぐい飲みと金魚だって恋をする。それは我々の認識する恋ではないというだけで。

人と人も同じ空気を吸い、そこにいるものに影響を与えつつ生きている。もしかしたら物というのはそこにあるだけで振動しているかもしれない。心臓駆動する人間などはそれで背後に人がいることになんとなく気付くのかもしれない。なんなら星も存在するだけで振動しているらしく、NASAでその衝撃波を音楽化したものが公開されている

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https://soundcloud.com/nasa/juno-crossing-jupiters-bow-shock

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発酵というのは生物における"食べて、排泄する"つまるとこ代謝であり、まあいっちゃえばその微生物にとっては糞便(あるいは文脈的には"こやし")なのであり、それが結果的に人間にとって良い影響を与える場合は発酵と呼び、害のあるものは腐敗と呼んでいる。

よく海外のドラッグ合法論争で言及されている

「ドラッグにいいも悪いもなく、ただ彼らは自然界に存在しているだけなんだ。」というやつと同じで、良いか悪いかを二元に決めるのはいつだって人間だ。

ドラッグの良い悪いは本論ではないのでさておき、発酵というのはそういう性質を持っている。して、彼らは物に付着し、あるいは入り込み、大きなものを少しずつ変容させていく。石は風によって、あるいは雨水によって削れたり、擦れたりして形を変えていくのと同じで、それは我々人間が感じられる速度ではなくゆっくりと、しかし着実に変わっていく。

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藤枝静雄が書いた『田紳有楽』という小説は、骨董蒐集家の主人が掴まされた偽物のぐい飲みやら器やらを池に沈めておけばなんとなく味も出るだろ、みたいな感じで放り込まれた器や、そこに住む金魚やら、仏やら、はたまた神の偽物やらが出てきて大騒ぎする。

この小説ではそうやって主人の安易な考えに振り回された骨董等が主人を一泡吹かせてやろうなんて画策しながら動き回るが、藤枝静雄のコミカルさと、人間愛みたいなものが感じ取れるが、もしかしたら盗木や宝石など、人間の勝手で振り回された物等はより深い恨みを胎に抱えているかもしれない。

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調理は"理"(ものごと)を"調"(ととのえおさめる)と書く。食材たちをあの手この手を使って自分ののぞむ形に動かしていくことは調理ではない。食材はそれぞれなりたい形が決まっていて、手当をして、あるべき姿に調える下僕のような料理人が自分の目指すべきところなのかもしれない。

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そこに存在するさまざまなものは、互いに良い影響を与え合っていきましょう、珍妙奇天烈(=oddity)でも良く、ただそこにいるだけで良い。しかし誰かが理を調える必要はある。でなければ荒れてしまう。

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先日新しい仲間と知り合った折、酒を飲んだ店にあった『日本の神様カード』というのを引いた。仲間が引いたカードはそれぞれ『高御産巣日神タカミムスビ神産巣日神カミムスビ)』枠を飛び越え遊ぶ神々。自分が引いたカードは『天之御中主神(アメノミナカヌシ)』理を作り、世界を調えた万物の根源の神だった。

結構祈って、願をかけて引いた。万物の神だからすげー!最強じゃん!ということではなく、おそらく理をつくる神が自分のうしろにいる、ということは自分は場を調えつつ、周りの神々がやんややんや遊んでいるのを眺めながら酒を飲め、善哉、善哉と笑っていればよい、ということなんだろうと思っている(失礼だけど、事実この天之御中主神、世界を作ったあと何ら事績を語らずただ姿を隠したと記している)。

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僕は人から受け取ったものを、それぞれあるべきところ、かたちに調えていく役目の人間だ、という風に考え始めています。そのままその人の通りで良い時もあれば、時には伝え聞いたことを自らの内にあたため、醸し、最適な形で渡すこと。これ発酵と調理に他ならぬ、と。

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これ本当に難しいだろうなと思っていて、あるべき場所、姿を探すとき、自分を本当に消し去らないといけない筈で、本当にその人にとって"あるべき"とはなんなのかについてずっと考え続けるのってものすごく大変な作業で、かつ常に間違っているという疑いを自らに向け続ける必要がある。

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あるべきものは、あるべきかたちにただそれ自身の力で少しずつ姿をかえていく。ただ、おそらくそれそのものの力では、ありたいかたちになれないものもいるのだ。”理”を”調”えるとは、そういったものたちに非力な手を差し伸べつづけることで少しずつぼんやりと生していくだろう。