mon petit au lait grasse

上唇で抑えるように、苦さを肌の上で感じながら、舌の中に甘いミルクを滑り込ませていく。まるで下着と肌の間に手を潜ませていくように、慎重に、そして愛を込めて飲み込んでいく。言葉は物事と物事との間を進んでいく。あれとこれのあいだ、過去とと未来のあいだ、僕と君のあいだ。これらを縮めるように作用する、または遠ざけるように。グルグルと回って近付けたり遠ざけたりする。だから僕たちは一言一言話す時に神経質にならなければならない。一言一句が自分そのもので、しかしそれぞれが一度口に発して空気中に音として消えていってしまえばはいそれまで溶けていってしまうが、そうなってしまってもそれを発した自分もその中に消え入ってしまっていって何故それを言ったのかは今の自分は全く覚えていない、ということはよくある。

閉店間際、片付をはじめている店員を余所目に彼女と僕はまだ二割も飲みきっていないまま、じつと互いを見つめていた。スピーカーから流れるGSの単調なエイトビート阿久悠のように糸を引く言葉だけが上滑りしていった。

昭和歌謡の言葉というのはどうも美しい。恋の歌ばかりだけれど、恋とは唯一無二のfemme fatale あるいは"あんただけ""あなたしかいない"であって、現在のスマートフォンを左スワイプで次の人どうぞ、とまるで婚活パーティのような恋愛が常態化した簡素でインスタント、代替可能なパートナーを探す気散じの遊びではない。ファムファタール、自分の人生を狂わせる運命の女。狂わせるとはなんだ?自分の人生はどうやら女によって狂うのか?それともそもそもはじめから狂っていたのか?狂っているとは一体、なにを以って狂っているとするのか?では世間の正気は一体誰が保証してくれるというのか?

 

甘いミルクの上に、濃く抽出した珈琲二層に分かれるように注がれている、この宝石のように美しい冷たい飲み物をオ・レ・グラッセという。ミルクが多めに入っていて、その上にほんの少し珈琲の膜が張っているのだが、この珈琲はミルクの有り余る甘さを覆い隠すように苦い。上唇で珈琲を抑えつつ、絶妙に珈琲と甘いミルクを同時に口に入れて舌で混ぜていくという技術がなければ、マドラーやスプーンでしっかりと混ぜて飲むことになってしまうが、それではこの躁鬱入り混じった美しい飲み物の本当の美味しさを味わえているとはいえない。強い甘みと強い苦み、この二つを同時に味わう時、なんとも表現し難い快感が口の中を満たすのだった。

折れそうに細いステムのワイングラスを持つと、しかしそれは折れる様子もなくしっかりと軸があるのがわかる。華奢そうに見えてしっかりとしているのがよけいに彼女のようで少し鼻で笑ってしまうと、なんですか、と訝しまれた。

「僕がもし、いつか居なくなるよと言って本当に居なくなったら、寂しい?」

「寂しい」

濡烏のような黒い髪は風に靡くたびに乳白の肌を見え隠れさせる。横を向いている彼女の目尻が顳顬に向かって切長に伸びていて、まるで池永康晟の美人画のようだった。画家は、こういった顔を見るたびに絵を描きたいと思うのだろう。僕の場合はこうやって心の中に文字で書くのだ。

彼女の透明さが珈琲でずっと隠れたままでいて欲しいと思った。無理に掻き回して透明さがなくならないように、僕だけが飲み方を知っていればいい、飲み干してしまいたいでもなくなってしまわぬようじつと眺めていたい、これは愛だとその時は思った。

オ・レ・グラッセは口の中で膨らんでガムシロップ 特有の甘みを舌に残して消えないまま、甘ったるさがずっと残り続けるので上澄みの珈琲を飲んで、それでも入ってくるミルクの甘さに辟易するふりをしながら、ふとした揺れで混ぜてしまわぬようステムを折れてしまいそうな程硬く持ち直していた。