プロット

人形たちはたまらなく美しい。すべてきちんとならべてあって、埃がつかないように欠かさずきれいにしている。 

人形たちは勝手に動いている。それを頭の中で何を考えているとか、何をしゃべっているとか、考えてはいけない。愚かな行動や、優れた行為というのもまた存在しない。

私の手を離れている。言葉は勝手に踊り出す。私の中にあるのではなく、勝手にやってきて、勝手に踊って去っていく。私と踊りたがることもある。彼女は私がうまく踊れることをよく思っていない。踊れるということは踊ったことがあるからだ。

しかしこの世の誰がいちどもやったことのないダンスを、あらかじめうまく踊れるというのだ?

処女の床上手など一体どこにいる、しかし僕らはそれを求める。フリードリヒ二世が赤ん坊が自発的に話す言葉を知りたがったように、赤ん坊が自発的に話し出す言語で綴られる散文に文学を求めるように。なにか純度の高い(あるいは高く見える)ものを欲しがるが果たしてそれは一体どこにあるというのか?

幾度となく過ぎ去っていった言葉たちを見つめ直し、微笑み、囁き、交わり、それでもとうてい理解し得ない言葉達をつかって綴るセンテンスは、調律されていないピアノとギターのセッションのようにやぶれかぶれ、それでも演奏会は続いていく。

やがて私は言葉と戯れることをやめ、食材と話すようになる。料理は良い。なぜならほとんどの食材は工業化されておりひとつひとつほとんどが変わらない味わいで、レシピ通りに作れば毎回同じものができるはずである。同じもの?いったいそれはなんだ。そこに同じものなどなにひとつありはしないのに。

そうなった時、私は言葉にもう一度触れようとする。

しかし、言葉と以前のようにステップを踏むことができない。何を愛していたかも思い出せない。

私は言葉を、文学を愛していた思い出を愛しているだけなのか?

否、私こそが言葉から離れている間に新しい言葉のあり方を身につけてしまったのだ。

自らの愛し方そのものが変容してしまったために、今までと同じ愛し方はできない。

自分そのものが同じでなかった。

すぐに邂逅が訪れるはずもない、狂ってしまった調律で鍵盤ひとつひとつを確かめるように愛し合うしかなかった。