酒という海を泳いで渡る、をわたる冒険

昔「酒という海を泳いで渡る」というブログを書いていた。二年前に消したはずだと思っていたが、ほとんどの記事を消しただけで、ブログそのものは残っている。あの時は戯れに小説やエッセイ、はたまたウラジーミル・ソローキンのインタビュー書き起こしなどをしていた。昔は、年の割に少し面白い小説が書けて、年の割に少し面白いと思われていた少年だった。あれから?今どうなった?ずっと燻っているだけだ。燻製?されていない、されてるとしたらとっくに酸っぱくなってしまってるよ。小説は書けない。小説になる内面がない。エッセイは書けない。エッセイになる日常がない。ただ年だけを取ってしまい、仕事にすべてのベクトルを向けてしまった今(実際そうでもない。仕事は好きだけれど)ものを書くなんてことがそもそも私にできるのか?書ききることはきっともう一生ない。でも書き続けることはできると思う。長い年月が経った。あれから一つ気づいたことがある。「酒という海を泳いで渡る」果たして俺は泳ぎ切ったのだろうか?いや、そもそも酒という海は存在したのだろうか?俺は、日常という不条理に酒という竿をさしてここまで行きてきたのではなかったか?絶望の海を酒で息継ぎしながら溺れる寸前で、ことばという流木につかまるなどして生きながらえてきたのではないか?流木によりかかりすぎてはそのまま沈んでいってしまう、やはり溺れ続けなければならない。この果てしない海はいったいいつまで続くのか、憐れな私はいったいいつまで泳ぎ続けなければならないのか?憐れな言葉たちはいつまでよりかかられ、こき使われてしまうのか?すでに塩水でぼろぼろだというのに。使い古される冗談だけどやはり航海とは後悔だ。ぼろぼろと失われてしまったものを拾い集めるには海の底は深すぎる。見上げても星空。陸に上がれば助かるのに、ちっとも見えない。いや、見えてないのは私だけ?いやしかしみんな孤独である。我々が星空を見上げたとき、星々が寄り添っているように見えるのと同様に、私が人々を見つめるとき、寄り添っているように見えて、実はまるで…。

航海は続く。後悔は、公開は。酒という海は、泳げないくらい飲めなくなって、飲まなくなって、それでも続く。たまに付き合ってくれればいいんだ。いつもだと疲れるよ。酒という海を泳いで渡る。もう頭の先まで溺れている。